陶酔への考察

自分の身勝手な論法で言えば、「ねえ如月クン、学食って何処?」「ああ、一階の体育館に向う途中のプレハブ」「ありがとう」「どういたしまして」「抱いて」「ここじゃマズイよ」という一連の流れがあったはずだが、そんな自分がなぜだか京王ストアで買ったパックのニラ餃子を齧りながら、肉の代わりに玉葱と椎茸を嫌と言うほどブチ込んだラ−メン、つまり如月風野菜たっぷり醤油ラーメンをすすりつつ、ミルコ何某がマットに沈む様をテレヴィで観ねばならぬのだ。甚だ疑問である。そんなことを考えていると、如月の心中に燻っていた微かな火種の一つである虚無という名の・・・えーとなんだ?虚無という名の・・・虚無?つまり虚無という名の虚無、虚無中の虚無。キング虚無。キングカズ。虚無とカズって語感が似ていますね。まあ、形骸であるという一点においては、それほど差異が無いのでいいのだけれども、それはさて置くとして、そのカズが、いや虚無が、如月の体内でむくむくと膨れ上がってきた。で、気がついたら自分は「ああああああああああ〜」と、まさに女性が悦楽の極みにおいて発する概念的絶命の咆哮、それに似た奇声を上げながら丼をフローリング床に落としていた。

オーケー、落ち着こう。まずは自分がいったいどんな生活を理想とするのか。それを枚挙してだな、その課題を一つ一つクリアしていくことこそが、虚無からの脱却につながるのではないか。そう考えると、如月の野心などはとうに果てているので、まずは安定した平日と、斬新な休日をプランニングしたい。

はじめに平日夜のシチュエーション。ただいまなんつって帰宅。一人暮らしではあるが、声を出すというのは活力を持続させる意味でも有効であるからして、ご近所に間抜けと思われても臆せずに言う。そして、一日を乗り越えた自分にささやかなご褒美が欲しいところ。そうビアーである。如月は缶ビアーを小型冷蔵庫から出して、ぐいっとやる。炭酸の洗礼を浴びた頃に、鍋がコトコト音を立てるとベストではなかろうか。ボクはほろ酔いでキッチンにキチンと立って、おっとダジャレって、自分酔っているな。そう思いつつ、湯の立つ鍋に手当たり次第具材を・・・といえども冷蔵庫には野菜しかないので、それをブチ込む。そして、即席麺を投下してさらに煮込む。いいぞ、いいぞ、この期待感。そしてそれを丼に装い、いざ食べるという段階になって、なにか大切なものが欠落していることに気がつく。

ラーメン、ビアーと来て、続く言葉は餃子一枚というのが大切である。もちろん事前に京王ストアで購入済。偉い、オレ。己を知れば百戦殆うからずと偉人が申しておった。
で、自分はだらんと寝そべって、涅槃のポーズで、ラーメンと餃子を食べ、合間にビアーを飲んだ。ほのかな幸せ。さようなら虚無よ。あー、やっぱこんなときはテレヴィプロ野球でも見るに限ります。チャンネルを捻るのだが、そんな時に限って雨天による整備不良ナイターは中止である。しかし、代わりに格闘技の番組が放送されていた。まあ同じスポーツだからいいかと、餃子を齧ったころ、ブラウン管の中ではミルコ何某という選手がマットに沈む。え・・・









「ああああああああああ〜」